水の激辛日記館    2000年12〜11月

2000年 曜日
12/23 消費者の味方」になれぬ企業は消滅する。
第15話

 それぞれの企業が、「消費者の味方」と成れるかが、その企業にとっての存在価値である。
 そして、社会的に見て、その企業の果たす役割が社会に対してどのくらい貢献でき、また、必要であるのかがいつも問われている。当然、必要性の薄い企業は消滅して行く。

 企業が利益を出すという目的を達成するために、企業本位の方法を取る事が多い。それは、それで存在する為に必要なことであるから非難するに当たらない。しかし、問題なのは、考え方の根底に自分の企業さえ良ければ良しとする風潮だ。そして、その中には口先だけの「お客様は神様」だの欺まん性が漂っていることだ。
 本当に、「お客様第一」と考えているのかが疑わしい。サービス業などはその点がかなり改善されてきているが、まだまだ道遠しの感は否めない。その点で特に立ち遅れているのは、中小・零細の製造業者関係だ。
 物を作り、それの販売流通の原点は当然、製造原価からにある。しかし、その製造原価だけを「錦の御旗」に据えて、販売競争に挑んでいる企業が多いが、果たしてそれで良いのであろうか。
 また、本来は最終消費者を第一義に考えるべきなのに、自社商品の円滑な流通のために一次、二次、三次流通業者の方を優先しているようにさえ見られる企業がまだまだ多い。

 「物の最終価格」の決定権は、消費者にあるという簡単な事がまだよく分かっていない経営者がいかに多いことか。自社のために商品が流通するなどと夢々思うべからず。商品価格も消費者が直接タッチして決定できないので、暫定的にメーカーが付けているだけのことだと。
 その実証は、昭和40年代からスーパー、ディスカウントストアなどで行われてきている。そして、ますます過激さを加え、まさにお客様は「神様、仏様、仙人様、天使様」状態だ

 その一方、旧来の既得商権などを用い、流通価格、末端価格などを牛耳ろうとしたり、新規参入や新システムの拒否、コストダウンなどでなんとか生き残ろうと抵抗、努力したもののほとんどが衰退化している。
 他方、製造メーカーは自社商品を、市場流通メーカーなどにああでもない、こうでもないと茶々を入れることなど慎むべきことだ。大メーカーを始め寡占的な商品には、まだまだそういう事象がままみられるが、これも時の流れとともに変革せざるを得ない時期が遠からず訪れることだろう。

 企業および経営者はどのようにしたら、「消費者を味方」にできるのかの一点に的を絞り、そのためにはどう行動すべきかを突き詰めて考えて欲しい。メーカー支配の時代は終焉を迎えたのだ。お客様の欲する物を作り、提供する。そして、その商品価格は「お客様」が決める。
 自己中心・自己保身企業は、遠からず消滅する。この地球の環境の中で、この社会の中で、生かさせて頂いているという感謝の気持ちを持っていなければならない。自分および自分の関わる企業は、「社会に貢献する」ために存在するのだということを。

12/09 10%節約で社会の富は一挙に増える。
第14話  毎日の生活で各人が10%の節約をするだけで、国や社会の富は飛躍的に増える。国民に蔓延している「無駄」というものに対する意識の欠如は目を覆いたくなるほどひどい惨状だ。無駄にしているといえるものは電気、ガス、水道、食べ物など枚挙にいとまがない。
 こうなってしまった一因に「消費は美徳」というバブル生成過程の問題がある。日本には昔から「物は大切に」という教えがあり、それを基本に生活を営んできた。それが、昭和40年代後半から50年代にかけて経済の成長とともに「消費は美徳」、そして、使い捨てという享楽性を前面にした社会風潮を醸成してしまった。それは個人や企業の手前味噌の論法となり、またたくまにエゴイズム主義が謳歌してしまった。その利己主義を中心にした「人間性の卑しさの原点」ともいえる風潮は社会の隅々まで蔓延して、現在のような状態をまねいている。
 政府の論法では、「社会の先行き不安があるから物を買わない、物が売れない」という。本当にそうであろうか。庶民が物を買わないというのは、今現在で必要性を感じていないからだ。戦後、貧しかった中でもどうしても欲しいと思った洗濯機、冷蔵庫、白黒テレビなどは万難を排して購入した。
 そのあとに訪れた池田内閣の所得倍増計画から端を発し、バブル崩壊前後までの消費ブームは、結果的に見ると「作られた消費ブーム」だったともいえる。その「作られた消費ブーム」とは、不要不急のものであるにもかかわらず、CMなどで派手に宣伝し企業側論理に立った「みせかけ消費」であった可能性が大きい。現在もその手法が継続され、テレビなどで耳にタコができるほどCMを流さないと売れない時代になってしまった。
 これら一連の「背伸び消費経済」が果たして必要なのであろうか。不要不急の物を本能のおもむくままに手に入れる事がそれほど大事なのであろうか。筆者などは子供の時によく親から「欲しい物は3日待て。3日たってそれでも辛抱できないのであれば買いなさい」と言われた。大体、3日もするとほとんどの物がどっちでもよくなってしまう。消費行動とはそんなものだ。
 消費行動をこのように変えるだけでも全国民の消費ダウンは数%に上るであろう。社会の表と裏には必ず笑う人と困る人がいるものだ。消費者は倹約できて笑うが、企業側は売れなくて困る。しかし、「国全体の富」という視点から見ると明らかに節約、倹約側に軍配が上がる。10%の節約をする余地もないという人は日本中でごく一握りしかいない。それどころか、20%以上の節約、倹約ができそうな人はゴロゴロいる。日本国中、無駄だらけ。
 「意識の改革」、「忘れられつつある節約と倹約」の実行。この2点だけで「日本の国富」、「個人個人の生活」の向上は間違いない。贅沢や甘えにおぼれる事無く、節約できるところは節約し倹約できることは倹約する。それが、21世紀の子供達へのプレゼントだ。ゆめゆめ「消費は美徳」などと金輪際思わぬことが大切。


11/13 読者無視の「新聞休刊日」。その姿勢が新聞衰退をもたらす
第13話  今日は、新聞休刊日だ。私の日課は、朝一番に新聞を一通り目を通すことから始まる。それが今日のような新聞休刊日にはリズムがくるってしまう。なにか間が抜けた感じで普段のリズムまで戻るのに時間がかかる。このような習性をもった一種の「新聞中毒者」がたくさんいるのを「お休み」している新聞関係者はどう思っているのであろうか。
 新聞休刊の理由づけには、ムッとくる。新聞販売店や配達者の休みのためだとは。新聞社は、読者よりも販売店関係者を優先するのか。また、販売店などの福利厚生のためというのならそのように努力すればいいだけなのに。
 また、「休刊日のニュースはテレビ、ラジオ、インターネットで御覧下さい」などと平気でのたまう。そもそも新聞とはなんたるかという存在価値そのものを自分で否定してしまうほどの厚顔無恥さだ。そのテレビなどのニュースにおいても新聞休刊日だからと特別丁寧に報道するわけでなく、いつもどうりの番組構成である。
 新聞販売店の休みがどうしても必要というのなら、「駅売り」だけでもしたらどうですか。読みたい人は駅に買いに行きますよ。粗品を配ってまでの販売拡張などに血道を上げないで「当新聞は休刊日には配達はしませんが、駅売りだけは行います」とやったら、読者の拍手喝采は間違いなしだろう。
 新聞発行は「公器」であるということをかくれみのに「商売人」の上を行くようなことは謹んでほしい。紙上に堂々と立派な正論を書き、やっていることは全く反対のことも。「購読料のさみだれ一律値上げ」などさいたるものといえる。
 読者のことを思うなら、一斉休刊をやめて交代で休刊したらどうか。また、24時間営業のコンビニや年中無休店をどう思いますか。あなた達、新聞関係者以上に頑張っている人たちもたくさんいるのです。大マスコミという既得特権にあぐらをかき、新聞販売店のために休刊するといういいわけ三昧の姿勢。これでは、テレビやインターネットに凌駕される日もそう遠くなさそうだ。
 紙上では、どこそこの業界が独占禁止法の疑いありなどと報道するが、新聞業界はどうですか。「一斉休刊日」、「一斉値上げ」、「報道協定」などなど。それこそ独禁法違反の第一候補ではありませんか。新聞発行に一番必要な自由かったつの意見発表と自由競争を捨て去ってしまったのですか。
 まあ、一社くらい「年中無休」の新聞発行をする読者のための新聞社に脱皮するところはないのだろうか。所詮、新聞社は「普通の企業」に成り下がってしまったのであろうか。 トホホ。

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