水の激辛日記館   2000年10月 

日常編 トホホ爆笑 水回り日記  ・水に感謝!!世相に物申す

10/24 見栄と恥』を捨てたら、この世は天国。
第12話

 ・人間は誰でも見栄(みえ)と恥(はじ)がある。見栄の部分では他人を意識して、うわべを飾りたがる。そのために出来る限り自分を欺き、他人までも巻き添えにする。そして、その労力たるや押し測る事が出来ぬほど激しい。その見栄の実現ためには、ありとあらゆるものを犠牲にする人も多い。
 一方、「恥」もある面では見栄と共通するところがあり、自分の恥部を他人に知られたくないという高望み意識が見え隠れする。一般的に「恥」は暗いイメージの後ろ向き表現なのに対し、「見栄」は表側の明るいイメージに使われることが多いようだ。
 色々の事件の発端は大体が「見栄と恥」から出発している。その「見栄と恥」の実現の為に「自分に見合った」もの以上のものを高望みし、仮に手に入っても永続性の難しい過大なものまでを求めてしまう。古来よりこれを戒める様々なことわざがあるが、見栄の欲求の前ではほとんど効き目が無い。
 そもそも、実力やそれを持ったり望んだりする資格、能力がないのにそのものだけを手に入れても結果は「自明の理」である。そのもともと無理なものを求めるのをやめたとき、人間性が突然よみがえる。
 「見栄と恥」のために自分の人生でどれだけのつまらぬ徒労をしたのかと。想像してみてください、自分の生活で「見栄と恥」を捨てたらどのくらい肩の力が抜けて楽になれるかを。「見栄を捨て、恥じる」をも捨てると人生バラ色、この世は天国です。
 人間とは、本質は真面目で正直な生物です。それをつまらぬ虚栄心やねたみ、優越感を味わうために見栄を張り、また、一人前以上にみせかけて恥じをかかないように偽装する。
 21世紀は「心」、「癒し」の時代といわれています。心(こころ)穏やかに、「見栄と恥」を捨て去り、新しいスタイルで生活をエンジョイしてみたらいかがですか。絶対絶対、お薦めです。


10/23 自然の恵み『空気、水、太陽光』などタダのものが全て有償化に。
第11話  ・自然の恵みによってもたらされている「空気、水、太陽光、天然資源」などがそれぞれが危機段階に入ってきた。それらは基本的にはタダ(無償)で提供され利用されてきた。その中で比較的早く有料化が進んだのは天然資源であるが、水も上下水道設備の発達とともに有料化の部分が多い。しかし、一般的には「水はタダ」という概念が強く、ボトルウォーターなどを除くと「水をください」といってお金を請求されることはほとんどない。
 天然水の直接採取や河川水、海水の直接使用の場合はコストが軽微ですむが、実際に飲料となりえる水を得る為にはそれ相応の「上・下水道料金」を負担しなくてはならない。また、「水は生活する上のライフライン」ということで国・地方の予算編成の最優先事項だ。このため、渇水時・緊急時の給水にも住民に直接負担を求めないよう配慮される。しかし、私達が使用する水の実際のコストは国、地方、各人が払う上下水道料金の合計である。全てを含めたそういうコスト試算は見たことがないが、かなりの単価になることは間違いないだろう。
 さて、公共の力によりそれが保てるうちはよいが、今、全国各地で地域差による水道料金騒動が問題になり始めた。「水はタダに近い値段」という概念から「水道料金が家計に及ぼす影響が大きい」という意識変革であるから大変である。節水もあまりせずに「水はタダ」という概念で使い放題でいたことへの警鐘ともいえる。
 一方、空気、太陽光はいまだタダで恩恵にあずかっているが、ここ近年の「環境破壊」により「地球環境」は悪化の一途をたどっている。遅まきながら各種団体などが啓蒙活動を図っているが、自国、自分だけ良ければ良いといった「エゴイズム蔓延」の中で苦戦しているのが実態だ。今のままで行くと、地球環境は「地球の持つ自然治癒力」の及ばないところとなり、近未来には空気、太陽光も有料化となる可能性が高い。
 今、地球は「悲鳴を上げている」。その悲鳴を和らげる努力をしないとそのツケはとてつもなく大きい物として跳ね返り、やがては人類全体をおおいつくすことになる。


10/22 嫌な嫌な大型倒産がこれからも目白押し。
第10話

 ・日本人はここ何年間の突発的な出来事の連続で、大事件や大事故に対する「驚き度」に免疫性ができてしまった。北海道拓殖銀行や山一證券の破綻に始まり、何兆円単位の事件が目白押しだ。住専の公的資金導入で2千億円弱の時はあれほど騒いだのに、今では何兆円の話でもほとんどの人が無関心という有様である。
 ここ何年間の大型倒産は、政府がなんとかそれを回避しようとあらゆる手段を講じた末に起こったことである。政府はあらゆる分野に公的補助政策をとっており、そのために実質上は破綻しているのにもかかわらず「虫の息」の会社は数知れない。
 倒産がおこるとその事態ばかりが注目される。しかし、その倒産がもたらす本当の意味の二次、三次波及被害は影に隠れやすく埋没しがちだ。1兆円の負債には、1兆円の被害者が発生する。その1兆円の被害者の内、持ちこたえられない企業は連鎖倒産する。どういう形にせよ倒産して負債何兆円、何千億円という金額は連続して波及して誰かが「必ず」穴埋めしなければならないのだ。その「受け皿」を求めて負債額は容赦なく企業、国民に襲い掛かることになる。銀行の不良債権問題などまさにこの例だ。やっと、不良債権償却にメドがついたと何回もいいながら、次々に起こる健全債権の不良化でそれに対処していく速度のほうが遅くなってしまうという状態だそうだ。
 そういう事態を回避しようとこれからも政府は必死で対応するだろう。しかし、最近の世論は公的資金の投入などの方法に疑念を抱き始めていて、為政者も動きが鈍りつつあるのが現状だ。結局、「経済行為」は自己責任でという論法で、最終局面まで手が出せなくなる可能性が高そうだ。「政府の口先介入」が効き目がなくなり、本当に「政府が介入しない」となれば大型倒産が連続し連鎖倒産の続出となる。
 日本人は環境に対する順応性が高く早いという。しかし、これから起こるであろう「大型倒産」の目白押しに対して、どのような順応性を示すことができるのであろうか。ネズミは危険が迫るとその前に逃げ出すそうだ。しかし、そのネズミ手法は通用する筈も無く、日本人の本当の叡智が求められる、そんな時代を迎えた。


10/20 明るく生きても一生、暗く生きても一生
第9話
 ・どんな大きなあるいは些細な出来事でも、それを「楽観的にとらえる人」「悲観的にとらえる人」と2通りある。それは、その人それぞれが幼児期よりつちかわれてきた習性で、特に意識をしない限り変わることは難しい。
 晴れてカンカン照りには、「暑くて嫌だ」と「この日照りで作物が育つ。アァ、よかった」と。また、雨降りには「濡れて嫌だなあ」と「作物やダムへの恵みの雨だ」というように同じ現象を全く別の視点からとらえる。これは、すべてのことにあてはまる。政治・経済・社会・家庭生活・友人・仕事・趣味・遊びなどなどで、あなたは物事の事象を「楽観的」、「悲観的」にとらえ考える時にどちらが多いですか。
 楽観的とは、俗に言う「能天気」のことではありません。物事をよいほうにとらえ考えるということです。人間には「気」というものがあるらしく、日常の考える事、考え方がその「気」に通じていくというのです。
 人間誰しも、嫌な事は悲観的にとらえ排除する習性を持っている。しかし、それを前向きにとらえたり、それは良くなる前提だというふうに考える人もいる。物事を明るい方角に考えると案外、悲観的に考えた事の馬鹿らしさがわかることがある。いつまでもメソメソと悲観している人も多いが、時がたつとケロッとしているなどは、だいたい楽観的見地に転化しているのが原因だ。
 この楽観的と悲観的はまた、起こった事象に対して原因を「他人のせいにする」と「自分のせいにする」ということにもある。誰でも原因を他人のせいにしてしまいがちだが、本当の原因は自分の中にあることもままある。原因を自分のせいにするということは、一時的には悲観的になるが、時間がたつと楽観的見方に変わっていくことが多い。反対に、原因を他人のせいにしがちの人は、始めは楽観的のようでも悲観的に変わっていく。
 人の一生でいろいろのことが起こり、その時点の受け止め方を楽観的にするのか、悲観的にするのかで人生観はガラリと変わる。貧乏なら貧乏なりにその現状を甘受した方が精神的によい。いくら貧乏を嘆いてみても貧乏から脱する解決策にはならないのだから。また、自分の不遇を嘆いてみても何の役にも立たず、暗くなるだけだ。明るく生きるとは、寛容の気持ちですべてに対し容認することだろう。人間誰しも欲はある。しかし、それが手に入らぬといって他人のせいにする事は悲しいことだ。よく、無欲の大切さといわれるのはこのことである。
 なにもかも現状を肯定的に受け止め、前向きに考え、生きていられるだけで有難いのだと悟った時に、第二の人生が訪れる。その人たちの人生は「カネ」や「モノ」にまみれている人たちより数段上の「人生の総決算の日々」を送る事ができるは間違いないだろう。人は欲していたものが手に入った時に、満足感以上にむなしさを感じるようになる。


10/14 ホームページ製作者は、『際限ない作業をこなす人々』だ。
第8話


 ・HP製作者は休む暇が無い。次から次へとやらなくてはならないことばかり。やらなければやらないで余り気にならぬが、一度手をつけたらもう大変。このような広範囲で際限ない作業は、社員がおらず、何から何までこなしている超零細企業の社長と同じだ。
 HP製作が好きだからなんとかやれるのであって、仕事上の義務でやるとなったらゾッとする。次から次へとアイデアを出し、HPに反映して行くだけなのであるが。そのアイデアが泉のように湧き出してくる人はいいが、なにも湧き出してこない枯れた泉のような人には「苦痛」という一(ひと)文字にほかならない。
 HPのここをこう直せばもっと良くなるということは自分のHPを見るたびに思う事です。その改良方法もあるのは何となく判っているが、その部分の勉強がこれまた大変。その箇所が何十、何百箇所とあるのですからとてつもない作業です。本HPは、コピーするとB4版で300ページを超える量になります。今まで公開している部分と、今後加筆、増加して行く部分の両方を同時進行して行くのですから、まさに「猫の手」も借りたい状態です。その上、文才が無いときては。トホホのホです。
 HP管理を零細企業の社長に例えると、「アチコチのボロ機械はショートして火花、納品は徹夜しても追いつかず、支払いだけは山とあり、掃除をしないと汚くて、危死回生の新製品アイデアは出ず、ただウロウロするばかり。」といったところか。とにかく、その零細企業社長が、晴れがましくも「全世界のネット」に向けてHPを公開しているわけですから、すごいことです。
 HPに対し、「認識不足」の人がほとんどで「全世界のネット」から、あなたのHPも見られているという現実をつい忘れてしまいがちです。その「全世界から見られている」HPを、あなたは公開しているのです。あと少しでも化粧してより良い姿を見せようではありませんか。


10/14 ホームページは、『一生かけて仕上げるバイブル書』だ。
第7話


 ・HPの公開に際し、最初から最良のものが出来る人(会社)はありません。それを短兵急でなく、ジックリと一生かけて仕上げていく位の余裕を持った気概で望めばいいのではないでしょうか。人間というものは、ある懸案が頭の片隅にあるとその解決策がふと浮かんでくるものです。それを忘れないうちに実行することを繰り返せば、おのずから素晴らしいHPになって行きます。
 この余裕を持ってやると言う事が大事なのです。その余裕感がHPの中に自然に溶け込み、そして読者に伝わるのです。読者に安堵感を与えるということは、読者が胸襟を開いてくれるということにほかならないのです。HPを自己中心、自己本位で製作したものは、「鼻につきやすい」というのはこの視点が欠けているからなのです。
 人々は無欲のものに惹かれます。なにか作意をもったものには警戒を抱きます。この「作意の多薄」は年齢、経験により薄らいできます。そのため齢を重ねると温厚な性格になって行く人が多いのです。年齢、経験につちかわれHP改良に研鑚すれば「バイブル書」化することは必定でしょう。自己満足が主体のHPが、「世のため・人のため」のHPに脱皮するとは、アァ、素晴らしきことなり。


10/13 ホームページは、『その人(会社)の全知全霊』だ。
第6話  ・その人(会社)のHPをみれば、その人(会社)のほとんどが分かるといっても過言でない。それは、HPの端々にその人(会社)の全知全霊がかいま見られるからだ。表現力や技術力が上手で綺麗、素晴らしく見えても全体的見地から判断するとおおよそのことは分かる。人間だれしも良い事だけを表現するが、そのHPに対する姿勢が一度公開したらズッーとそのまま。これでは一見、どんなに綺麗、上手に作ったものでもその人(会社)の姿勢が分かろうというもの。その人(会社)も必ず動いているものですから、せめて半年に一回位は更新できそうなものだが。
 HPは、その人(会社)の履歴書、現況報告書、存在証明書、将来予想書とも言えよう。その人(会社)が全知全能を振り絞ってまとめた集大成書でもある。そのうち、入社採用試験の条件に「個人HPのある、なしや内容閲覧」を組み入れてくる企業も現れるだろう。
 よく、こんなHPはつまらまい、面白くないという声を聞く。しかし、チョッと待ってください。まず自分が作ったらどの程度のHPが出来るかを。人の批判は誰でも出来る。しかし、自分でやってみると案外こんな筈ではなかったとつまずくことが多いものだ。そのHP作りの大変さを肌身で感じたことのある人は、どんなHPに対してもその製作者の苦心さんたん振りを思い計る。誰でも最初は、初心者であるからだ。その初心者も熱意を持って更新を重ねていくと「なにかを訴えるHP」に自然になって行く。
 心そのものが性悪な美人がどんな綺麗なべべ(着物)着ても、いつか「化けの皮」ははがれる。HPも同じです。どんな綺麗の高価な着物もずっと着つづけられていたら、見ているほうは飽きる。その人は、それしか着物(能力)がないのかと。そのためにする見続けてもらう努力、それがその人(会社)の社会に対する「見えざる財産」だ。
 まね、パクリや専門家に頼めば、まあまあのHP形造りは出来る。しかし、これは血の通っていないロウ人形と一緒だ。まねやパクリでは、そのHPに脈々と流れる「温かい血」まで模倣できないからだ。HPにその「温かい血」を見いだしたとき、読者は感激、感動する。


10/13 ホームページ製作者は、『信者造りの人々』だ。
第5話


 ・HP作業はある種のHPに対する「信者造り」を行っている。その信者とは、そのHPの魅力に魅せられた人々といえよう。HP製作者はその「魅力造り」のために日夜、励んでいるわけです。しかし、その「魅力」とは言うは易し、行うは難しである。
 あらゆる宗教は教義をもって信者を募っている。では、HPの「教義」とはなんでしょうか。毎日、あるいは定期的に見にきてくれるHPとは。
 人間というものは、「欲深い動物」で当人のそのHPに対するイメージが前回見たよりも落ちたと感じた瞬間から、再来訪の意欲がなえるものです。その期待に応える訳ですから並大抵の作業ではありません。通りすがりの一見客だけで十分だという人は、それはそれでいいでしょう。人間の「見てもらいたい欲」というものは、思っている以上に強烈です。アクセスカウンターが予想以上に上がらずにガッカリしている人がほとんどでしょう。これは、一つの新興宗教を起して信者を募ることとよく似ています。そのHP中にある表面には出ることはないが「奥深く秘められた教義」が希薄であるということではないでしょうか。その訴えたい事、訴えるなにかが薄いHPには、人々は関心を示してくれません。一番簡単に客を引くことのできる「興味本位だけのHP」も何回かのうちに飽きがきます。
 人々を「幸に導く」というコンセプトを持ったHPは素晴らしいと思います。その永遠の課題の「教義」を求めて、今日もまたHP製作者はさまよい、そして孤軍奮闘する。


10/13 ホームページ製作者は、『根気強い人々』だ。
第4話  ・HP製作は、相当の根気強さが求められる。まして、毎日更新の日記類などはその頑張りに脱帽する。人間であるから全然、気の進まぬ日も必ずある。その中で、気持ちを奮い立たせて新たなものを書く事は大変な作業だ。
 古来より「継続こそ力」という言葉があるが、その意味することは深い。どんなことでも、一からの積み重ねの結果なのだからだ。日にちをさかのぼって何日かの遅れを取り戻すことは出来る。しかし、それが3ヶ月、半年、1年となればもう不可能の水準である。よしんば、その水準を乗り切ったとしても5年、10年となればもはや「雲のかなた」となってしまう。
 これは我々が日常生活している中で行っている仕事、学業、知識、対人関係など皆、あてはまることだ。まさにコツコツと「持続こそ力」であることを大事にしたい。
 ・本屋さんに行くと山と積んである「あなたにもHPが簡単にできる」という本は皆、誇大広告だ。HPはたった3時間や3日間で出来上がるようなものではありません。それも、初心者が簡単にできると書いてある。HPの知識がほとんど無い素人がどう作るというのだ。第一、HPに関する最低限の知識習得に何日間もかかるというのに。
 この誇大広告は正確には「HP知識が相当ある人には、3時間、3日間でHPが作れます」というところだろう。パソコンのまわりにそれらの本を山ほど積んで、いまだHPが開けない人がどれほどたくさんいることか。
 テレビ、雑誌などを始めとするマスメディアは、競ってインターネット、HPは勉強などほとんどしなくても「誰でもできる」と宣伝し、消費者にさもそれが「素人でもできる」かのような錯覚を与えている。しかし、これは一種のサギ行為にほかならない。国およびメーカーは、「踊らされた消費者が馬鹿、勉強不足なのだ」というような言い逃れ施策、営業方針はとって欲しくないものだ。
 ・いやはや、インターネットやHPなどに対しての勉強、覚えるべきことは奥が深くて際限ない。余程の向上心と持続力がなくては務まらぬ。これをマスターしないと「おいてきぼり」をくうと必死の思いでついて行く。今日も明日も、そして永遠に、ついて行くのか「訳の分からぬ」この道を。


10/10 ホームページ製作者は、『零細企業を経営する優れた人々』だ。
第3話


 ・一般の零細企業とは、比較的小人数で物を作ったり加工したり、それらを仕入れて販売している会社、個人経営などの形態をいいます。当然、トップの経営者は何から何までしなくてはなりません。仕入れ、販売、製造、加工、資金繰り、接待、工場・人員・品質管理、広告・宣伝、新企画考案・実行、雇用などなど際限ない仕事量です。朝から晩まで休む暇などない。
 また、ほとんどの零細経営者の頭の中は四六時中とも「お金!お金!」の資金繰りでいっぱい。酒を飲んでいる時もゴルフをしている時もトイレにいる時も、頭の片隅で知らず知らずの内に「お金」の事を考えている。それが、前向きの資金であればまだしも、ほとんどの人が後ろ向き資金だ。
 皆、何のために一生懸命、無い知恵を絞って仕事をしているのか分からなくなっている人も多い。そもそも、これだけ多種の作業をソツなくこなすなどということは神ワザだ。しかし、それら全部を乗り越えないと立派あるいは一人前といわれる零細企業になれないのです。普通の人間にそれら全部を望むのは酷です。
 巷間、良く耳にする倒産、事業失敗の原因は世間から見ると外面的なもののみにとらわれがちです。「売上不振」、「バブル崩壊」、「不良品製造」、「過剰設備」、「資金繰りショート」、「社員の使い込み」、「労使紛争」、「関連会社倒産」、「人手不足、過剰人員」、「親族社内役員の不和」、「粉飾決算」など枚挙にいとまがありません。
 学校の成績では1教科だけが2か3のランクでも他が全て5だと「超優秀な人」ということになります。この人が社会にでて、普通のサラリーマンになったとするとその足らない2か3の部分は上司や同僚が補ってくれることが多いでしょう。
 しかし、零細企業を起こしたり継いだりする「経営者」は、まったく違うのです。当然、全体的にみると「超優秀な人」ですから数年間あるいは十数年は回りも目を見張るほどの業績を残すでしょう。まさに零細企業経営者は能力の欠けた部分の多い順にふるい落とされるのです。世間からみるとあの「破竹の勢いの会社が行き詰まり」などというのは皆、各個別分野では5段階評価では最上位を取りながら、たった1っか2っの箇所で3以下の不合格点であるがためなのです。
 超一流といわれた日本の企業でさえ、その栄枯盛衰ぶりはご存知のとおりです。企業には蓄財期と延命期があります。日本の上場企業の過半は延命期にあると思われ、それはタコが自分の足を食べて生き長らえている図にみえます。ましては、普通の零細企業には、その食べる足もろくにないのです。その上に、一部に致命的な能力不足をかかえているのがほとんどです。
 ・HP製作者はまさに「零細企業の経営者」なのです。HP作りは孤独であらゆる能力を求められるのです。ある日、ヒョッと気づいたのですが零細企業や中小企業の経営者側に立ったことのある人や立っている人のHPは、サラリーマン・主婦層・独身者と差異があります。後者は趣味・主張などを比較的率直に表現するのに対して、経営者側は無用の摩擦を極力避けるかのようなやや行き過ぎを警戒した表現をすることです。言葉、表現のはしばしにそれがにじみ出ているのが散見されます。これが、経営者側とサラリーマン・主婦層の基本的なものに対するスタンスの違いではないでしょうか。
 ・企業活動の販売するという行為が、HPでは「見てもらう」ということにあたります。企業では1人でも多くの人に買っていただこうと日夜、頑張っています。HPもよほどの変人でもない限り「一人でも多くの人に見ていただく」ことが命題です。さてそうすると、どうやってその魅力作りをしたらいいのでしょう。わかりやすくいうと、「万人から好まれる魅力的な女性」とでもいいましょうか。その「万人から好まれる」とは、欠点・非のうちどころの無いということです。まるで、零細企業の経営者の様とソックリではありませんか。まさか、HPでは倒産などいう失敗の懸念はままありませんが、零細業者になったつもりで運営する事が大事です。


10/09 ホームページ製作者は、『自己表現できる空間を見つけた人々』だ。
第2話


 ・諸兄、諸姉達のHPを拝見させていただくとある共通点に気づく。それは、ほとんどのHP製作者が自分の携わっている仕事とあまり関係のない分野(テーマ)で開設していることだ。その人たちは自分の趣味分野を生き生きと自由気ままに発展させていることが多い。
 それに反して、自分の仕事・ビジネスに関係のある、あるいは持たせたHPは総じて「勢い」がない。当然、企業・仕事という面から全面的なバック・アップを受けて製作するのであるから技術力、センスなど目を奪うものがある。しかし、それが綺麗、センスの良さだけにとどまってしまい、いまひとつ訴えるものに欠けている。特に、代表的なのは、広報HPだ。企業・個人HPにしても無理やり語呂合わせして作った感じで、個人の趣味HPに比べると、製作担当者のみならず、企業の姿勢や裏側がかいま見られるような気もする。
 ・良く子供の時に「人生の天職」という言葉を聞いた。その天職という言葉の受け取り方が時代とともに、どんどん変わってきているようだ。昔の天職は「初志貫徹型」、最近は「別の世界で実現するもの型」といえようか。生活苦や金銭苦は今も昔も状況は多少違うが同じこと。その天職とは、自分の趣味や性格・性質などに見合い、そして果てしない情熱を傾けられる仕事や生き方といえようか。
 個人HPの中には、「骨身を削り」あらゆる「犠牲」をはらって自己表現されているものが多く散見される。これぞ、まさしくあなたの「天職」だというHPが。自分の仕事では、その仕事に対する興味も半分、熱意も半分という人がいかに多い事か。しかし、オマンマを食べる為には仕方がないことさと自分を慰め、欺いて妥協しつづけている人がほとんど。ああ、悲しいかな。
 ・最近、小生はもうひとつ別のHPを作ってみたらどうかなと思っています。俗に言う「プライベートHP」です。名前も出さず、識別番号だけのものです。仕事や名前を出すといかに書くことが規制、制御されることか。もちろん、誹謗、中傷のたぐいは厳禁ですが、いかに言いたい事を我慢していることが多いか。カミさんやダンナさん、家族・友人・知人の悪口くらいは当然許されるはんちゅうでしょう。また、人に秘密にまた内緒にしておかねばならぬことがに多いかを、みんなそこに吐き出そう。人や家族などにいえぬ「女遍歴」、「男遍歴」、「失敗談」、「隠し事」、「思っている事」、「隠したりやりたい趣味」、「隠している悪事」、「願望」、「妄想」などなど。絶対、面白く・為になり「血」の通ったHPになること請け合いです。そういうHPが今後、徐々に増えてくるでしょう。
 その一方、企業・仕事上でHP作りに関係している人々は情熱を傾けているつもりでも、心底・衷心から好きでやっている人は、ほんの一握りではないでしょうか。その人達に趣味・嗜好など自由なテーマでなおかつ匿名でHPをオープンしてもらったら、今、関わっているHPより格段に素晴らしいものを創造するのは絶対間違いないと思います。人間の能力の素晴らしさは、好きなものに対してはどん欲に「不眠不休」でもやり遂げることです。当然、そのHP作りには取材や調査・研究などが必要です。しかし、その実現のためには「労を惜しむ」人はいないでしょう。仕事としての「義務感」でなく、「自由かっ達の精神」から生まれるHPが今後どんどん見られることを期待しています。


10/08 初回に付き「甘口日記」を書きます。
ホームページ製作者は、『尊敬と言う言葉に値する人々』だ。
第1話


昨年10月に始めてネットのホームページを見てから、ネット中毒になり常々感じてきたこと。
 ・諸兄、諸姉達の文才・筆の立つのにビックリ。物書きで食べているのでもなく、次から次へとよくもまあ、文章が書けるもんだと驚きっ放しです。文才のない小生など世の中にはすごい人がたくさんいるもんだなと感心の連続です。
 ・HPの構成の斬新さにもビックリ。HP造りは文才だけでは駄目で総合的なものが求められる。文章・デザイン・HTML知識・全体的センスなどなど・・。小生が編集作業を過去に体験したのは、高校時代の新聞発行、業界新聞編集のお手伝い4年間位です。その作業体験から皆様方の努力、奮闘ぶりがなんとなく分かり「尊敬のまなざし」に変わるのです。
 もっとも、新聞・書籍発行はその購読料と広告料で成り立っている「商売」ですが、普通、大方のHPは無報酬型です。その無報酬型のHPに対して、全知全霊を傾けてHP造りをしている様には頭が下がります。なかなか趣味や情熱だけでは続かないものです。
 ・次から次へと斬新なアイデア続出に敬服します。HP製作者の勉強、そしてそれの習得・利用上手にもビックリ。サポートセンターのお姉さん方もタジタジの質問をあびせ、そして、それをHPへ反映する見事さ。まさに神ワザ。
 ・中高年と若者の基本的な違い。
   中高年・・・説明書やヘルプを読んでから行動。そして、ちょっとつまるとまた説明書。
   若者・・・まず、訳がわからなくても使ってみる。そして、どうにもならなくなったら説明書をみる。

  この違いはどこからくるのだろうか。物事に、若者は「感性」から入り、中高年は「理解」から入る。なにか今の若者は、行動して失敗してから考えるタイプが多そうだ。もっとも、一世代前の我々が若者だった頃も中高年に同じような事を言われた記憶がある。ただ、その程度がますますエスカレートしており、まったく俗に言う「明日、なにが起きても不思議でない」世に完全になった。
  その一方、個人において社会への『義務』と『権利』の乖離(かいり)が急速に進んでいる。このままでゆくと個人の果たすべき社会への「義務行為」は急激に潰え、「自分の権利」だけ主張する人々が激増する。日本国は、「個人主義の濫用横行」による『義務放棄・権利主張国家』と化す危険性が大きい。

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