水の歴史館(給水・下水)② 


日本編    江戸水道は世界一  

 18世紀初頭、人口約100万人の江戸は当時世界最大規模の都市でした。ロンドンやパリが50万人前後であったと言いますから、神田上水、玉川上水、青山上水、三田上水、亀有上水、千川上水の六上水による「江戸水道」は規模だけについて言えば世界一であったと思われます。

 ただし、江戸時代の水道が重力のみを利用した導、配水路であったのに比べ、ヨーロッパではすでにポンプによる圧力導、配水路が建設され、水道技術は我が国より大きく進歩していました。

 また、フランスを中心とするヨーロッパ諸国では、水道だけではなく下水道も建設されていました。18世紀後半には、素晴らしい下水道網がパリの地下に張り巡らされていたことが、小説「レミゼラブル」にも記されています。

 「小石川水道」が日本最古

 日本最古の水道は、神田川から江戸城下に引いた「小石川水道」だそうです。天正18年(1590)のことです。
 江戸時代にはいって神田上水・玉川上水ができ、17世紀中葉に地下式上水道としては、延長150kmという世界最大の上水道にまでなりました。
 ヨーロッパではこの時期(17世紀)、唯一ロンドンで地上式の延長30kmの上水道が建設されているのが、世界で2番目のものだそうです。(古代ローマの水道は除きます)
 なぜ、この時期の日本にこういう上水道ができたのか、と思いますが、一つには江戸の町が元々湿地帯の上にあり、いい井戸が掘れなかったという事情がありますが、もっと大きな理由は、日本人のきれい好き・清潔好きという嗜好の問題であったのではないかと思われます。嗜好というとピンときませんが、風土のせいといってもいいかと思います。
 日本列島をくまなく縦横に走っている河川が、いずれも清冽な川であったからでしょう。清く、美しい川だったのです。というのも、日本列島の急峻な山岳から発する川は、たいがい急流です。平野部でもかなりの速度で流れています。川水が美味しく清潔である理由もここにあります。
 誰もがあたりまえに思っているこの川のありようは、日本の地形的な特質によっているので、世界的にみると決して典型的なのではありません。むしろ少ないと言っていいと思います。
 近くでは韓国の洛東江は上流・下流の高低差が少なくり、流れているようにみえません。淀んでいるみたいです。
 中国の揚子江も同様ですが、ヨーロッパでは大体がそういう河川です。日本でも琵琶湖から流れる瀬田川は、流れがみえない希な例です。山城へ入って淀川となるのですが、見ていると鏡のように動きません。

 藤沢周平の海坂藩(武家物)小説に「蝉しぐれ」という小説がありますが、冒頭の描写に、朝、寝起きに、下級武士長屋の裏口のすぐ前を流れる小川の水を飲み、顔を洗うシーンがあります。
 小川は本流から幾本も街に引いた小さな一本ですが、このような引き込み水は、江戸時代に農村・都会を問わず、各地にあったといいます。
 洗濯などはそこから、柵をきってため水にして行い、汚れた水は木や野菜に与えたのです。地上を流す水道といっていいと思います。


 
ウォシュレットは海外では不評??
 
ちなみに普及をみている「ウォシュレット(ブランド名かな)」は、アメリカ人やヨーロッパ人には意外に不評なのだそうです。なぜか分かりませんが、あまり有り難がらないのは確かなようですから、清潔というものに対する感覚の違いと思われます。

 現代の日本人は、その清冽な川の水をひたすら汚しつづけてきました。
工場排水はもちろん、家庭の汚水・排水は、大きなダメージを引き起こしつつあります。なんとなく屎尿の汚水が一番大きな影響を与えると考えがちですが、そうではありません。屎尿は有機物、適切な処理さえすれば、自然に与えるダメージは割合少ないのです。
 残り油・合成洗剤・汁類をそのまま汚水として流してしまうことのほうが、決定的な悪影響を与えます。とくに残り油はいけません。
 清潔という性格だけが残って、源である河川を汚し、水をすこしも大切にしない現代人は、江戸人からは異郷の人に見えるでしょう。
 世界でもっとも清潔な民族といわれる日本人は、世界でもっとも川と水を大事にする市民でなければならないと思いますが、どうでしょうか。

神田・玉川上水/江戸の水道

 玉川上水は、多摩川の羽村から取り入れた水を人口水路で、当時としては空前の大工事でした。承応2年(1653年)2月に着工して、わずか7ヶ月で四谷大木戸まで、全長43q、落差92bの水路を開通させてしまった。
 17世紀後半には100万人に達していた人口の60%までが、水道で生活していた。その後250年以上も使用していた。総延長は現在の東京から静岡までの距離に相当する。
 明治維新のあと、江戸の水道は東京府に受け継がれた。複雑な水道システムはとても、素人の手に負えないから、水番人達はそのまま東京府の職員となって水道の維持に当たった。現在の東京都水道局は徳川幕府水道役所の直系の子孫という世界的な名門です。
現在の井の頭池(1)
現在の井の頭池(2)
現在の『井の頭池』
●「神田上水」 : 徳川家康が江戸城に入ってからつくられた「神田上水」が日本最初の水道事業とされますが、この神田上水がいわゆる「江戸水道」の始まりで1590年に着工されました。

水源は「井の頭池」で現在の井の頭恩賜公園(東京都三鷹市と武蔵野市にまたがる)内にあり、木管で67qにもわたる水道だったそうです。次の「玉川上水」と合せ1899年(明治32年)まで給水していました。

   

    
現在の玉川上水(1)
現在の玉川上水(2)
現在の『玉川上水』 (中央線三鷹駅〜吉祥寺駅間付近
●「玉川上水」 : 1600年代に入り、幕府は江戸の人口増による水不足から、神田上水に続いて「玉川上水」をつくりました。神田上水と玉川上水が世に言う江戸の二大上水です。

三代将軍家光の時代に、幕府は玉川庄右衛門と清右衛門兄弟に命じて、彼らの提案になる上水の建設に踏み切り、1653年に着工しました。



 下水道の歴史日本編 

 日本では,昔からし尿を農作物の肥料として用いており、ヨーロッパのように,し尿を直接川に流したり,道路に捨てるということはあまりありませんでした。
 しかし、明治時代になって,人々が東京などの都市に集まるようになると,大雨によって家が水に浸かったり,低地に流れないで溜まったままの汚水が原因で,伝染病がはやったりするようになりました。
そこで、明治17年(1884),日本ではじめての下水道が東京で作られました。その後、いくつかの都市で下水道が作られたものの,全国に普及することにはなりませんでした。
 本格的に下水道が整備されるようになったのは,第二次世界大戦後,産業が急速に発展して,都市への人口の集中が進んでからのことです。
また、産業の発展に伴い,昭和30年(1955)頃から,工場等の排水によって河川や湖沼などの公共用水域の水質汚濁が顕著となりました。
そのため、昭和45年の下水道法の改正により,下水道は町の中を清潔にするだけでなく,公共用水域の水質保全という重要な役割を担うようになりました。 
年号 主な出来事
奈良時代 平城京に下水きょができる。
平安時代 野玄式便所(日本式水洗トイレ)が高野山にできる。
安土桃山時代 大阪城下町に下水道ができる。
明治時代
5〜8年(1872〜1875) 銀座大火ののち街路の下水設備ができる。
12年(1879) コレラの流行
17〜18年(1884〜1885) 東京神田に汚水排除も含めた近代下水道ができる。
33年(1900) 下水道法が制定される。
大正時代
11年(1922) 東京の三河島処理場運転開始。わが国最初の処理場であり,散水ろ床法により処理した。
昭和時代
5年(1930) わが国最初の活性汚泥法による処理が名古屋で始まる。
33年(1958) 新下水道法が制定される。
36年(1961) 第1回全国下水道促進デー実施。(以後現在まで、毎年開催)
38年(1963) 第一次下水道整備五箇年計画始まる。(現在は八次計画実施中)
40年(1965) 複数の市町村にまたがって整備される流域下水道工事着手。(大阪府寝屋川流域下水道)
45年(1970) 下水道法の一部改正(公害問題の顕著化に伴い,「公共用水域の水質保全」を下水道法の目的に加える。)
50年(1975) 農村で行われるものや自然公園などの環境を守ることを目的とした特定環境保全公共下水道事業が創設される。
平成時代
5年(1993) 下水道事業実施市町村の割合が5割を突破
6年(1994) 下水道処理人口普及率が50%を突破
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